昭和40年12月15日 夜の御理解



 『神を信ずる氏子は多いけれども、神より信じられる氏子が少ない』神を信ずる氏子は多いけれども、神から信じられる氏子が少ないと。その神を信ずるということ、それは、どういう風に信ずるか、それが問題なんですね。ハアー確かに神様はござるなあと信ずる。それだけでは、しかし何んにもならん。神様は実在してござるんだと、神実在だということをです信じただけでは何にもならん。
 その神様が、どういう働きをして下さるのかということを信じるところに、信心の喜び、又は安心があるのである。椛目に参られるほどしの方ならば、ハアー確かにこれは神様のおかげに違いはない、神様は、やっぱりござるとたとえば始めて参ってきた人も、おかげを受けると神様の実在を信じんわけにはいけません。
 けれどもその神様がね、どういう働きをもってござる神様か、ということを、私共が分からして頂くところに信心の稽古がいるのです。只神の実在を信ずるということだったら、いわば、これはお道の信奉者だけではない、神様、仏様というて拝むほどしの人ならば、皆んな信じておる。けれどもどういう働きをなさる神様かと、私共が拝まして頂いとる金光大神のお取次を頂いて願わして頂いとるという。
 天地金乃神様という神様はどういう働きを、私共の上にして下さる神様であるかということをです、分かっていく信じていく。それをならどういう風に信ずるかというと、これは私が信じておる、私が分からして頂いておるところを申し上げますとです、私共がこれは、誰しも自分が可愛くない者はありません。ですから、自分を大事にするのです。自分を大事にしない者はないでしょう。
 自暴自棄になって、もうどげんなったっちゃよかといった様な人は、暴飲暴食をいたしましたり、いわゆる、生活が乱れてくるわけですけれども、でない限りでは、やはり、それとてもやはりギリギリの時には、自分を大事にいたしますです。サアーお前を殺すぞという時には、やっぱりそれを防ごうとするでしょうが。そんならお前はそのまま川の中へ飛び込めと言っても飛び込みきらんでしょうが。
 それは自分を、大事にしてるからですよ。大事にしてる証拠なんです。その自分、自分が自分を大事にすると云うこと、けれどもです、私共が自分自身、自分を大事にする以上の働きを持って、私共を大事にして下さる働き、それが私共が拝まして頂いとる神様なんです。私共が自分を大事にする、ところが、その位なことではない働きをもって、私共を大事にして下さる。
 いわゆる神様の御守護ということです、氏子可愛いと云う一念です。私共が、私共をありがたい、大事と思う。それ以上、以上どころではない、どれだけたくさんの思いであるか分からない思いを持って、私共を大事にしてくださる神様なのである。そこのところが分からして頂くところにです、信心があるのです。その神様が私共をです、どういう風に大事にして下さるかということを、私共は信仰体験と申します。
 おかげを頂いて自分でも大事にしてみる、医者にかかってみるということも、自分を大事にすることなのである。けれども医者にかかっても、どういう事に頼んでも願っても、どうにもでけない問題が、神様のおかげで、おかげを受けていくというのは以上の働きを持って、働いて下さっておるから頂けるのですよ。そこで、私一番始めに申します、教祖の御教えにです。
 神を信ずる氏子は多いけれども、神から信じられる氏子が少ない、と。神を信ずる、神様をどういう風に信じるかというところに、この神様の私共の上にかけてくださる願いというか、思いと云うものの深さを段々神様の思いを分からして頂く。そして、神様はそういう私共が、私共自身を大事にするという様な事では、問題にないほどの大きな働きを持って、私共を大事にして下さるということが分かる。
 そこで、その神様のして下さるということをです、本当に実感さして頂くためにです、いわゆる、神を信じる氏子は多いけれども、神から信じられる氏子が少ないと仰る、神様から信じられることのために、私共が信心さしてもらう、私共は神様に喜んで頂けれることが、神様に信じて頂けれる氏子にならせて頂く。そこで私はです、陰と日向の心を持つなとか、神様がご承知の世界。
 神様だけがご承知の世界に、私共が真をつくしていこうという様な、精進も努力もだからなされる分けである。神様の御信用というものが、神様から信用される、神様から信用される氏子にならせて頂くところの楽しみ喜び、それがここにハッキリ出て来るのが、又体験である。先程も久保山先生、久富先生三人で炬燵の所で話しておったことです。久保山先生が考えてみるとたいしたことじゃあります。
 と私何を云いよんなさるとかと思いよった。そしたら椛目の十何年前のこと思い出してから、それを言うておられるのであった。丁度昨日、一昨日熊本の富永先生が見えておられて、そこで、長男と久富先生富永先生と三人で話しておられるのを、私は途中から行って聞かせて頂いて、椛目の信心をです。今の信心を本当に分かるためにはです、やはり、親先生の十五年前の信心を知らなければ分らんと云ってから。
 十五年前の話をしておられた。長男を前にして、若先生がまあだ小学校の時に、目に竹のくいが刺さった時、それを裏の篠原さんが引き抜かれて、目がこう外へひっくり返ってしもうた。時に、親先生がお取次された、あの様子を見ておってですたい、親先生は、どこまで非情な方だろうかと、とても親子の情のない様なお取次である。それこそ、私自身その時代、自分のこと思うてみて。
 私自身がまあようああいう信心が、修行が出けたもんだと自分で思うくらいです。あの椛目が始まって四年半というあの修行がです。一切をいわば、神様が下さる修行ならば、どげな修行でもさして頂こうと、決していいやこれはいりませんという様なことは、言うまいという時代のことを思うてみてです。そのためには、やはり警察に召喚されることもあった。ああた自動車で私を警察から呼びに来ましたからね。
 検事局に呼ばれる様なこともあった。保健所が乗り込んできて、椛目をそれこそ色々な角度から調べた場合もあった。様々な、やはり投書やらあったわけですね、まあいうならば本当に様々な事があったが、ああいう、例えば信心態度というか、度胸というか、そういうところを通らせて頂いての、現在の椛目だという様なことを話しておられました。富永先生も、ハアー本当にそうですね。
 そういう様な話をせにゃ現在椛目が一生懸命お参りがあるとか、お供えが多いとかというところだけ、皆が見に来るけれども、ためにはやはりそういう様な、いわゆる椛目の受難時代と言った様な時代にです、それを何ともひとつも思ってなかったということです。私は、それは当り前様にして受けていったということです。そういう時に今日の御理解を持ってするなら、私は神様の信用を受けたのではなかろうかとこう思う。
 そしていよいよ、この神様こそです難儀の様に見えとるのは、難儀ではなくて神愛であり、神愛の現れであり、神様の氏子にかけて下さる思いをです、解らせようとなさる所の方法に他にならないと云う事。いわゆるこの神様は私自身を大事にするというくらいなことではない、それこそそれとも何千倍とも何万倍とも分らん様な、深い深い大きな思い、大きな働きをもって私共を守っておって下さってあると云うこと。
 その守って頂いとることを実感さして頂くところに、真に有り難い勿体無い、いわゆる神の中を分けて通りおる様なものじゃとか、我身は神徳の中に生かされてありといった様なことが分からしてもらうところに、いわゆる喜びの世界があるのであると。そこんところをひとつ皆さんが、段々体験に基づいていくと同時に、只おかげを受けた、おかげを受けたではなくて、そのおかげによってです。
 神様のそのそういう働きを自分のものにしていくところに、いよいよその、神様の思いにそうていく御信用の受けられるところの、私共にならせて頂こうと、そこに信心の楽しみを見出していかなければならん。私、そういう様なことを今晩の御祈念の中に思わせて頂いて、そういう様な信心を身近かに分からして頂くのには、どういう信心が一番よろしいだろうかと思わせて頂いとったら。
 亀がこう這ってるところ、上にたくさんの鶴がこう舞ってくる所を頂くんですね。ハハアー亀といゃ私のこと、鶴といゃ皆さんのこと、とにかく鶴のもとに通うて来る以外にないということです。例えばそういう様な私の信心を目の当りに見たり聞いたりする以外になか、これが一番早道だと。そして、その人の言うところをです、行ずる以外にない。そこにその神様のいよいよ偉大な働きを。私共の上に現わして下さるんだという実感をです、お互いのものにして行く事がでけるという様な意味の事を頂くんです。
 結局椛目通いする以外にない。どんなに沢山の書物を読んでも、どんなに自分で修行さして頂いても、やはり到達しておるところ人の、ある意味で、信心を目の当たりに見たり聞いたり、又は教えてもろうてからするが一番早いというか、それが間違いが無いということであろうと私は思わせて頂いた。ところが、皆さん椛目通いをなさってもです、見とっても聞いとってもそういう。
 例えば信心を身につけさせて頂くことを、願いとする信心にならなければ、二十年三十年通うてきても同じであろうと思うですね。私共の上に私共自身が、私共を大事にする、その大事にするその思い以上の思いをもって、私共を大事にして下さる方、と 私共がそれを信じられた時にです。私本当に神様が信じられた、と 神を信ずるということは、その神様がです、どういう働きをして下さるかということを、信ずる事だと思う。そこに喜びがあり安心が頂けて来ると思うですね。
   どうぞ。